2015年1月10日

生半可に謝らない。

公私ともに、謝ればいいってもんじゃない、という話。


身内話からで恐縮ですが、年末、自分が子供だったころの正月風景を思い出し、昔の家族に紐づく人に順々に思いをはせていました。

家事に忙しかった母、離婚後に会わなくなった父、その父の新しい家族や、30年程前に亡くなった父方の祖母。

父は結局、新たな伴侶と命を授かり幸せがまた巡ってきた、ということで、わたしには母に付いて父と祖母のもとを離れた罪悪感を打ち消す理由があったのですが。ふと、おとなになり当時の祖母の目からみると、ガン手術で排泄もままならなくなっていた老女の身で、嫁と孫に去られ、40代半ばの息子と二人、だだっぴろい田舎の一軒家に取り残されるという、想像を絶する寂しい状況が見えてきて、年末の垢落としに長風呂しながら嗚咽にむせました。没後初めて、おばあちゃんごめんね、と涙が止まりませんでした。

 

これは今の家族にやさしくして償うしかない。 

と思いながら、正月に主人の実家に帰省しても義母の手伝いをまともにせず、その後は新年会だといって自身の母、姉、主人、息子と集まる宴会の幹事を母にさせ、まったく流した涙が役に立ってない。ごめんなさい。

 

とはいえ、その家族の宴席で、姉が発した「お母さんは謝り過ぎ」という言葉に考えさせられました。


母は、もう30年も前を振り返り、自分が離婚しなければよかった、自分の育て方が間違っていた、と度々わたしたち娘らに謝ります。

しかし子供としては謝られても、前者については離婚は当事者でないと正当性や合理性を図りかねる(だから第三者機関に頼る裁判とかになっちゃうんだろう)から本人がよければ問題ないと思うし、後者についてはリコールで社長に頭を下げられる不良品ロボットみたいな気持ちになって若干やり場のない怒りが湧いてくるものです。

パパとママ離婚してごめんね、育て方悪かったね、と親が子供に謝るのは、何十年もくりかえされるとプリーズ ストップ、というか辟易するのが事実だと思ってしまいます。

 (一応これでも人間なので、いえいえ育ててもらってありがとう、と思うけどね)


わたしも一時は米国にいて、訴訟国家で下手に謝るとトラブると肝に銘じていたので、三十路過ぎぐらいまであまり謝らないようにしていました。日本だって、ごめんですんだら警察いらないって言うしね。(用法は限定的です)

しかしオーストラリア人の同僚に、君謝らないね、と言われたり、イギリス人の同僚に君ぶっきらぼうだね、と言われたりして、相手の気持ちを和らげるのに役立つのであれば、すみません、ごめんね、等をよく言うようになりました。

また、米国籍の若年男性が、何にでも謝る姿がキュートでみなに「ソーリーマイク」という愛称で可愛がられているのを見て、謝るのも武器だなー(笑)、と思いました。

代理店稼業をしているうちに、気持ちよい人間関係をつくるうえで謝る言葉が潤滑油になるのであれば、と思うようになりました。(現在進行中)

 

そのまま突っ走ってき身体を壊したりもしましたが、休養復帰し、失敗を繰り返して都度謝る前に行動を考えなおそう、と決めました。

 

公私ともに生半可に謝り過ぎるのは逆効果。

謝るときは、何を、どうした背景があって、なぜそのタイミングで詫びるのかを説明し、問題の分析、原因の究明、善後策を示さないと、受け手の神経を逆なでしかねないと思います。

広報の現場ではお詫びのプレスリリースや記者会見で、説明、手立て、誠意が足りないと映ると、反感を買って手厳しく叩かれるのが常です。現に、昨年からの教育業界の情報流出や、食品業界の安全生を損なう瑕疵に関するお詫び報道を見ると、企業が謝る、また問題が明るみにでる、また謝る、の繰り返しで不信感が増し騒動が拡大しているように見受けます。

(個人的には、その影で奔走する人たちの苦労を想像して早期の問題解決、沈静化を祈るのですが...)

 

ううむ。小さなことから大きなことまで、悪気はなくとも相手のことや状況をよくよく考えずに謝り過ぎるのはよくない。

過度の詫びは、潤滑油でなく酸化した油のように害をもたらす。

悪いと思ったら改善しよう、と思います。

わたしはまずは、家族にやさしくして仕事にいそしむ、です。

言うは易し、がんばります。 


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えーっと、泣いて謝りたかったら、節度ある範囲でね。